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共同浴場
 浴場は2つあり、弥生町のある浴場を第2浴場、稲荷町にある浴場を第2浴場といいました。大きさは第1浴場の方が大きく121.67坪、第2浴場は93.35坪でした。
 開湯時間は、午後3時から午後9時までで、週一回の休業であったものが昭和35年3月からセメントのバ−ナー冷却水を利用するようになってから無休となりました。
 南社宅が無くなった今でも、工場側の配慮により第2浴場の女湯を2分割し、大沢・栄町の集落の人に開放しています。運営は共同浴場管理組合として・・・入浴料有り。


直営売店(配給所)
 「配給所」の愛称で親しまれていました。これは戦中・戦後労務用加配米その他配給物資を取扱ったからだそうです。ここに来ると大体のものが揃いました。食料品をはじめ日用品雑貨・履物・衣料・医薬品・家具・電気器具など広範囲に商品を扱い、しかも廉価販売を行ない、また伝票による掛売りもして利用者の利便を図ったりしていました。昭和30年頃は町民の50%以上が「配給所」を利用していたそうです。
 「配給所」は昭和四十六年電化商事(株)に改まり、三店舗のうち「南売店」は昭和50年12月で閉店となりました。
 

南クラブ
 住吉町にあった「南クラブ」は、木造トタン葺平屋建82坪、集会場、催場、武道場などに充てたほか初期の保育園と併用したました。後に「南公民館」となりました。
 南社宅の文化の中心地として様々な活動が行われました。敬老会などの地区行事はもちろんのこと剣道クラブ・柔道クラブのスポーツクラブから、習字やそろばんなどの習い事も行われました。ちなみに、活動例として昭和31年1月には、講演会、実習会、映画会、生活改善研究、青少年珠算学級活動が行われた。

    「南地区公民館」


電化保育園
 昭和4年創立、原則として就学前一年の幼児を保育しまし。保育室4、遊戯室1、配膳室1など153坪。保母4名、賄婦1名、ピアノその他備品・設備、保育内容の良さで県内でも定評がありました。昭和36年町営に移管し昭和38年に廃園となりました。昭和28年のピーク時には180名の園児がいました。

保育園の生活
9:00 集会
11:30 昼食
9:30 遊戯
13:00 集会
10:00 自由遊び
14:30 おかえり
10:30 おやつ
   
親子遠足の様子


慰霊塔
 神社の前に工場殉職者の慰霊塔があり、毎年創立記念日には遺族、来賓を迎え厳粛盛大に慰霊祭が執り行なわれました。
 この塔は成田剛氏の設計で、東南アジアに多く見られるパゴダのようなデザインはきわめてユニークなものでした。
 これも工場用地拡張のため昭和55年秋に撤去され、位辟は大沢部落「光徳寺」に安置して、毎年法要を営み供養しています。



慰霊塔
電化児童図書館
  昭和25年創立、木造瓦葺2階建69.5坪。当時私立児童図書館としては県下唯一のもので、設備・管理方式の良さでその名を知られました。当時の水野工場長の発案で、狭い社宅では子供の勉強部屋もままならぬためとして設立されたそうです。閲覧室3つ、小学生低学年、高学年、中学生用に分けられ153人収容の机・椅子を備えており、館外貸出しも行なわれました。その頃南社宅には小学生645人、中学生245人がいました。特に高校進学する受験生にとっては何よりの施設でした。
 この他図書館は、習字・そろばんの習い事や青年団の寄り合い所としても使用されました。

    『電化児童図書館に奉職して』


電化附属病院南分室
 電化保育園に隣接して診療室、待合室などを備えた15.5坪の建物でした。電化病院から医師・看護婦を派遣して診療に当たり南地区居住者の便を図りました。


青海町役場南部出張所
  昭和31年4月から町は住民サービスのため祉宅係事務所の隅で徴税・戸籍・転出入・相談どとなどの事務を開始。
[取り扱った仕事]
 1.税金の取り扱い   2.戸籍謄本・戸籍抄本の取り扱い   3.転入についての仕事   4.いろいろな相談
 同じ年6月から洗心町第十分団詰所に移転しました。この建物は工場がつくり町へ貸与したもので、ここには常設消防として大型自動車ポンプ一台が配属されていました。
 鉄骨製11.85メートルの望楼もここに設置されました。この望楼は今も見ることができます。

    『南部派出所庁舎移転』
    『南部出張所が廃止』


巡査派出所
 社宅の治安維持のため工場が南社宅の入口部に木造瓦葺平屋建15.75坪の建物を新築提供し、昭和24年9月から糸魚川警察署南社宅巡査派出所が開設されました。昭和46年4月閉鎖となるまで三代の巡査がその任に就きました。


稲荷神社
 このほか社宅の中心部に池や庭園を備えた稲荷神社があり、社宅居住者の信仰の場となっていました。
 春秋の祭礼には各所に幟が立ち並び、工場幹部、氏子総代らが参列して神事が行なわれ、子供みこしが町内をねり歩いた。 また結納や家族写真などの記念写真の撮影場所となっていたようです。
 稲荷神社は昭和55年10月に青海神社境内に仮殿遷座されました。


広場
 神社のわきには相撲場・テニスコートなどを備えたグラウンドがあり、草野球や子供たちの遊び場としてまた町民体育祭など幅広く活用され、社宅居住者のレクリエーション・ゾーンとなっていました。 
 また社宅地内の空地にはプランコ、滑り台、ジャングルジム、回転プランコ、砂場などを備えた児童遊園地を六ヶ所に設け子供たちに喜ばれていました。


町民体育祭
プール
  昭和27年9月7日に開設。プール開きは社宅の従業員や中学生・小学生で行われました。広場の南側には25メートル5コースのプールが設けられました。当時としては珍らしい存在で、コース毎に底に白線があり郡内唯一の正規プールとして、郡内各校の水泳講習会や大会にも利用されたりしました。またそのわきには園児用の小プールも併設されていました。
 プールの水は青海川脇の貯水池からの用水の水を引き入れていたため冷たかったです。


プール
テニスコート
 広場の一角に設けられたテニスコート。プール同様当時としては珍しい施設だったようです。

テニスコート
バス
 南社宅は工場を挟んで市街地からは離れた場所にあったため、町への所用、買物あるいは糸魚川への足としてバスは欠かせないものでした。
 頸鉄バスの終点「電化ロ」から約1.2キロメートルの南社宅までバスの運行を図ったが、その間の道路は工場の私有地であるため営業路線とはならず、已むなく貸切バス扱いとし、頸鉄バスと契約のうえ、その料金を月極めで工場が負担し運行することになりました。
 待合所の建物も工場が準備し昭和24年4月から1日4往復乗り入れとなりまた。
 利用価値は高く、どのバスもすし詰めの混み具合であったようです。
 昭和35年5月5日から頚鉄バスが大沢路線官業開始とともに曙町が終点となり1日11往復となりました。
 この時点で前記の1日4往復は2往復となり、これは昭和36年3月まで続けられました。


社宅周辺の商店民家
 社宅を対象としたいろいろな商店が周辺にありました。 
 工場用地を借地しての店舗は二十余に達したのであるが、食料品店はもとより、鮮魚・履物・酒類・家具・ラーメン屋・理髪・美容院・豆腐・菓子製造に内科医・歯科医まであり、いづれも商盛をきわめました。
 店舗等合わせて昭和36年頃で50世帯あり、その名も「栄町」と称しました。